2022年03月29日(火)

地球環境に優しいハラール的、健康美生活 第21話

2011年3月11日。11年前に東日本を襲った惨劇は未だに多くの人たちの脳裏に焼き付いていることと思います。あの日の教訓を忘れないように、復興までの道が途絶えないように、記憶を決して風化させないようにと、この時期になると様々な特番とともに、当時の被災地支援の映像が流れたりしています。

 

 全国からの支援の輪、アメリカ軍の「トモダチ作戦」等の陰になり、目立たずあまり知られていませんが、在日のイスラム教徒の人たちによる支援活動もその中にありました。

 

 日本国内では、イスラム教というと「テロ」や「戒律の厳しさ」というイメージを持っている人がまだまだ多いと思います。でも、もし本当にイスラム教徒の多くがテロに関係していたり、厳しい戒律を強いられているとしたら、18億人を超える信者がいて、やがて世界一の規模になると言われている今日の姿を迎えてはいないでしょう。

 

 ところで皆さんは「喜捨(きしゃ)」という言葉をご存じですか?この言葉自体は、元来仏教用語であり、「喜んで寺社や貧しい人に寄付すること」を意味しています。この教えそのものは、仏教に限らず多くの宗教にあります。もちろんイスラム教においても、この「喜捨」の教えがあります。もっといえば、課税などの制度としての「喜捨」とご近所同士の助け合いのような、自由意志としての「喜捨」の2つがあります。今回は、自由意志としての「喜捨」について、ちょっとだけお話ししたいと思います。

 

 イスラム教徒における「喜捨」がユニークだなと思うのは、一般的な貧困救済というのが、「持てる者が持たざる者への救済」という上下関係的な側面があるのに対し、イスラム教におけるそれは、「(持たざる者が持てるものに救済させてあげることによって)持てる者の罪が許される大いなる機会を持たざる者が与えてあげている」という対等の関係がそこにある点です。

 

 それを端的に表す事例として分かりやすいのが、寄付に伴う記念碑です。イスラム教徒以外からの寄付で建てられた学校などには、誰の寄付で建てられたかわかる記念碑があったりします。それに対して、イスラム教徒の「喜捨」で建てられた学校などには、誰の功績かわかる記念碑などはありません。持てる者は神に戻し、持たざる者は神から受け取る。与える(戻す)側と受け取る側の間には神が存在し、その両者には上下の区別がありません。

 

 私も経験がありますが、被災者支援に行き、そこで被災して苦しんでいる人達から「ありがとう」という言葉をいただくと、(皆さんを助けに行ったはずなのに)自分の心が幸福感で満たされる感覚を味わった人が多いと思います。人のお役に立てることがもたらす、かけがえのない喜び。自らが行動を起こすことによって、初めて感じることができた喜びを、イスラム教徒の皆さんが信仰のプロセスにおいて、文化として、当たり前のこととして身に着けているのだとしたら、イスラム教に抱いている冒頭のイメージを積極的に改めていく必要があることがお分かりいただけるのではないでしょうか?

 

 東日本大震災に限らず、多くの災害、事故、疫病など、世界のいたるところで困っている人がたくさんいます。私たち一人一人の力は小さく、大きなことはできないかもしれません。でもそれぞれの身の丈に合った「喜捨」の精神をもって、助ける人と助けられる人が対等な立場で互いを救いあえる世界にしていけたら、この世界はもっともっと素敵なものに変わっていくのかなと思いますし、変わっていくべきなんだろうなと思わずにはいられません。

 

 

 

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